
第50回
保育園から木枯らしの公園へ
井上 さく子
私の子ども時代
家の周りの山の景色は、四季折々に山の色を変えて季節を教えてくれていました。
子ども心に春と秋が好きでした。
夏の山はかんかん照りになり、暑い!!
人間だけが暑い訳ではない。山の木々たちも虫たちも植物たちもどうやって、この暑さをしのいでいるんだろう?と子どもながらに、遠くの山を見つめて感じることがありました。
それは何歳の記憶だったのでしょう?
冬は冬で、真っ白な銀世界に入ると、その白さと、雪の深さと、積もり続ける雪の重さや高さと、先が見えない景色を怖いと思うこともありました。
『家も人たちもみんなみな、雪に埋もれるんじゃないか?』と。
そんなことがある訳がないと、子ども時代には思えませんでした。
自然の怖さや不安な心持ちを誰かに明かした訳でもなく、いつの年齢だったかは定かではありませんが、胸の中にしまって置いた自分を振り返っています。
自然に憧れたり、自然に魅せられたり
自然を恐れたりしたことは、今振り返るととても新鮮で懐かしいエピソードになっています。
それでは、今を生きる子どもたちは、どうでしょう?
11月と言えば、冬支度の季節になりますが、子どもたちは、どこで、どのようにその季節を感じるのでしょう?
外の世界へ飛び出していかない限り、寒さも感じなければ、冬支度と言う意味も、移りゆく季節の変化も、紐解けずに過ぎていくと思いませんか?
外の風景を覗いてみましょう!
散歩先で、木枯らしに舞う枯葉の動きに魅せられて、
「キャア〜ッ!」
歓声をあげて枯葉のリズムに踊らされている子どもたちです。
やがて風がやみ、動きがおさまると、「今だあ!」とばかりに重なり合う枯葉の固まりを足で踏んづけて、シャリシャリ、シャカシャカ、ガサガサ ガサガサと音を立てて、形が変わっていく様子を見て、さっきとは違う歓声が上がります。
再び風が吹いても、粉々になった枯葉は踊りません。一瞬、「あれっ?」
でも、すぐに気がつき風に踊る枯葉のありかを求めて走り出し、動く、枯葉と共に踊る子どもたちです。
こんなふうに、シンプルに、無邪気に、
風の力を感じながら、流れが変わると同じことを何回も繰り返してはしゃぐ子どもたちの風景を、周りの大人たちはどのように受け止めて、子どもたちの心持ちを読み取るのでしょう?
落ち葉や枯葉を集めて、両手いっぱいに持ち上げて手を離した瞬間に、枯葉がパラパラと散る様子に歓声をあげたて遊んだり、ビニール袋に枯葉を集めて、縛ってボールにみたてて、野球やドッチボール遊びをしたりする風景に遭遇することがあります。
それも、一つの遊びかも知れません。
大人の仕掛けと言えばそうかも知れません。
散歩先でのさまざまな気づきや発見を、何よりも大切にできる大人たちが、
数えきれないほどの子どもたちの心持ちや豊かな感情の一つひとつの育ちを、見逃さずに物語として綴り続けていきませんか?
何かをやらせてあげるのではなく、子どもたちが自ら
「やってみたい!」
「やってみたら面白い!」
「やってみたけどつまらなかった!」
など、具体的な発見や気づきの中で、本物を掴めること、それこそが生きる力になっていくと信じています。
やらされて何が育つのでしょう?
自然体験も季節感も、全て体験できればこそ、確かな学びになると思いませんか?
厳しい寒さに向かえば向かうほど、心も体も丈夫な体づくりができるのではないでしょうか?
やがて、冬がきて春が来ることを、確かな成長を遂げながら学んでいく子どもたちの力を信じて寄り添っていきませんか?
明日も明後日もあの場所で、「続きの遊びをしよう!」「できたらいいなあ!」の願いを叶えさせてあげる大人に、私たちがなれるといいですね。
コメント(14)
さく子先生のお導きによって、変わりつつある北陸のこども園
晴れた日の園庭は0歳児から5歳児の子ども達が仲良く遊んでいます。
3年前は広い園庭をただ走りまわっているだけでした。今はそれぞれ思い思いに工夫して遊んでいます。年上の子ども達が遊ぶ姿を見て刺激を受け、僕も私もやってみたいとチャレンジする姿が、あちこちで見受けられます。子どもの持つ秘めたる力の大きさ、すばらしさに感動している毎日です。
12月は木枯らしが吹いて、園庭では遊べないので、お天気の良い今こそ、思い切り秋を満喫します。
そうですね。自然とのかかわりから学ぶことは多いですよね。保育者が意図した内容で、意図したことができる子どもが評価されやすい社会ですが、自然は何も評価せずに、ただ受け入れてくれますね。そんな自然の姿勢からも学ぶことがたくさんありますね。
さく子先生の語る情景が目に浮かびます。
時に大人があそびに導く事があっても良いのですが、子どもたち一人ひとりの様子を見ていると、その子なりの気づきがあり、あそび始めるテンポがあるように思います。
さく子先生の提案は、私たち大人が立ち止まって考えてみる課題だと思います。
子どもから学ぶことを面白がる大人であり続けたいと思います。
最近、秋の色になってきたな、と公園を歩いて思っていたところでしたが、つい先日、旅先で感じたのは「秋の匂い」でした。畑を焼く?煙の匂いは確かにこの季節この場所でのものだったと、少し嬉しくなりました。
子どもたちにも五感で季節を感じてほしい、都会では同じような経験はできないけれど、都会にだって自然はある。今ある自然と子どもたちの関わりを大切にしていきたいと心から思います。だからこそ、子どもの気づきや発見に寄り添いたいですね。
さく子先生、いつもありがとうございます。読んでいると、すごく元気が湧いてきます。四季折々の中で、子どもが感じ取ること、そして感じ取った子どもの気づきに寄り添い、これを明日の保育の糧にすること、これが保育者としての成長を促してくれると思います。
自分も小学生の頃、裏の利根川の中州にクワガタやカブトムシを探しによく出かけたことを思い出します。中州といっても、川の流れも緩やかで膝から下ぐらいの深さを歩いて渡っていくのです。そこではよくコクワガタを見つけました。腐った樹木のうろにクワガタが潜んでいることが多く、こうしたことを体験的に学びました。たまに川で転んでしまうことがあり、そのまま友達と川遊びになることもありました。今日ではとても考えられない、牧歌的な風景がそこにはありました。
私の体験は夏のことですが、子どもは四季折々いろいろな体験をします。大人にとっては都合が悪く、心地よいとはいえないことも、子どもにとっては貴重な体験になることはたくさんあります。
寒い中で水を使った泥あそびを夢中になる子、冷たい風が強く吹いている中で枯葉をたくさん集める子、地中の虫探しをする子等々…しかしそうした具体的な体験からしか子どもの学びはないのでしょう。
大人の都合ではなく、子どもの興味が他の友達とも共有して広げられるように、そして興味が明日へと続くように、大人が環境への配慮ができるようになるといいですね。ただ口で言うほど簡単なことではありませんが。
竹ちゃんのコメントを拝見して、懐かしい‼️気持ちでした。
大人も子どももキラキラの気持ちって素敵。試してみて、居心地のよい環境にいつの間にか慣れ親しんでいく。
この空気を感じたとき、みんなで楽しいなと感じたとき、本当の保育ができるのだなとおもいます。
2月に水道の水を出して遊んでいた1歳児が、手がかじかんで泣いたことを思い出しました。自然は豊かで過酷で温かく子ども達に関わってくれています。そんな中で子ども達は豊かな心を育むのでしょうね。さく子先生のエピソードから、自然の中で遊びを探していたこどもの頃を思い出しました。
天気の良い日は毎日散歩に出かける子どもたち。靴を履いて外に行くときの嬉しそうな笑顔に『よかったね、とりあえず外に出られるね‼色々なものを見て感じて来てね‼』と心で願い見送ります。すぐ傍の川沿いの遊歩道で手を放して好きなところに行き季節の草花、昆虫と時間いっぱい遊んでほしいのですが、散歩先は大抵固定遊具のある公園。時に同行し、遊歩道に行くと、ちょうちょ、蜘蛛、ミミズに保育者がキャーと怖がる始末。ここからか…とため息一つ。しかし、子どもは色々知っていた。散歩で見つけたどんぐり3粒。年長男児が大切そうに持ち帰り「これあげる」と差し出してくれた。大切なのに良いの?と聞くといいよ‼と満面の笑み。夕方、帰る時に「あのどんぐり絶対に虫出ししてね‼お湯を沸かして入れるの。虫出ししないと虫が出てくるから必ずだよ‼」しっかりとした助言に大感動。豊かな体験していることを教えられました。乏しいのは保育者かもしれないと感じた場面でした。
やらされて何が育つのでしょうか?
本当にそうですね。
大人がたてた計画に子どもを付き合わせる保育、まだまだあるなぁと思います。
計画通りにいくことが良いこと?
ん~、違うよなぁ。
全員が同じ活動をすることが、クラスがまとまっているということ?
ん~、ほんとかなぁ?
そんな話をたくさんたくさんしながら、育ちあっていきたいなぁと思います。
そして、連載50回目、おめでとうございます!
イラストも素敵ですね~♪
外に出れば何も言わなくても子どもたちはすぐにそれぞれに楽しみを見つけて遊びだします。自然の中にいるとその夢中な表情の中にあんなこと気づいたんだ、そんなことできるんだ、と気づかされ、大人が何か言うことがかえって不必要に感じることがよくあります。原っぱや雑木林の中なら大きな声を出すことも、走り回ることも「元気の印」。もしかして室内では気になる子も、ちがった捉え方になることもあるのではとも思います。コロナのことがあるけれども、子どもたちはできるだけ、自然の中に出られるようにしていたい。ほんとは自分も気持ちよく、楽しいですから。
さく子先生の連載を読んで、昨年の4歳児の土手への散歩のエピソードを思い出しました。土手が近いので日課のように土手に行っていた4歳児クラス。しかし、昨年の大きな台風で荒川の河川敷が泥水をかぶり、河川敷で遊ぶことができなくなってしまいました。「土手に行けませんよね・・・」と担任がつぶやいていたのを聞き、「河川敷では遊べないけれど、上の歩道は歩けるよね」と声をかけてみました。
翌日から土手への散歩が復活。すると、それまで気がつかなかった富士山に気づいた子どもたちは、「あっ!富士山だ!」から始まり、「今日はきれいに見えないね。この前はきれいだったのに・・・」「あの白いのは雪じゃない?」など、歩きながら言葉にしていたようです。
担任は言葉のかけ過ぎに気をつけながら子どもたちとの散歩を楽しんでいたようです。すると子どもたちから「みんなで富士山に行こう!」と歩き散歩の目的が「富士山行き」になったと担任が教えてくれました。子どもたちのアイディアになんて声をかけたのか、担任に聞いてみると「いいね!みんなで富士山に行ってみたいね!」でした。
電車やバスを使わないと行けないよ・・・など、つい興ざめしてしまう言葉をかけてしまいがちなところを面白がってくれた担任にあっぱれ!行ける、行けないではなく、子どもたちの「行ってみたい」に寄り添ってくれたことが嬉しかったですね。
秋から冬にかけて、土手を歩く風の冷たさを肌で感じ、富士山の白く見える雪の部分が多くなってくることに気づいて「富士山はきっと寒いからジャンバーがいるよ」「雪もあるからスキーを持って行かないとだめだね」など、意外にもいろいろなことを考えていることに担任は驚いていました。
年長になった今も、まだ目的は達成されていませんが富士山を眺めながら子どもたちは諦めていません。季節の移り変わりを肌で感じながら、自然との関わりをこれからも楽しんでいきたいです。
「先生、見て」、真っ赤に色づいた葉っぱを私の目の前に差し出してくれた4歳児の男の子。聞けば、登園途中で保護者の方と見つけ大事に持ってきてくれたとのこと。一緒に葉の匂いをかいだり触ってみたり色を確かめたりと、忘れてしまっていた五感をフル活用させ、そして大切なものを思い出させてもらいました。たった1枚の葉っぱから。
朝の慌ただしい中、季節の移り変わりを親子で感じられているなんて、なんて素敵なんだろう。
はて、私は?散歩の目的地まで安全に着くことだけに気をとられ、道中の素敵な宝物たちを見落としているのでは?何のための誰の散歩?
都心にいても、自然を感じられます。もっと視野を広げてみよう、子どもたちに寄り添いながら一緒に楽しもうと思いました。
兄の影響で、毎週末山登りを始めて気づいた事は、この自然をいったい誰がどの様に作ってこうなって行ったのか?…不思議でなりません。何億年もの昔から徐々に変化をして、現在に至り、そして今なお変化をしている…。そう思っただけで、胸の奥がキュンと音を立てます。この小さな草、岩、土、生い茂った木、小さな沢山の虫たち、山の中で密かに咲き美しい姿を見せてくれる花々…この全てのもの一つ一つが重なり合って、豊かな自然を形成していることが何だか不思議。そして何だか切なくて何だか何よりも愛しい。自分の存在もこの自然の中では、小さな歯車の一つなんだ…と感じます。
この何とも言えない感覚を感じること出来ると幸せに思います。命もこの自然に組み込まれているからこそ、他の命をいただいて、誰もが生きていく。そんな摂理を自然の中にいると感じるのです。そんな感じを子どもたちにも感じて欲しい。
しかし、この感覚を教えても感じる事は出来ないと思います。同じ環境が、子どもたちの目の前にあったとして、興味関心がなかったり、感じるキャパがない時は、どんなに知らせたり教えたりしても感じない上に、知ろうとする事はありません。
人は、何で?不思議?どうしてだろう?と自分で思った時に、初めて心が動く気がします。たくさんの感じて欲しい環境を用意したり、出向いたりするしかけも必要ですが、心を耕せるだけの柔軟性をたくさん積み上げている子どもたちがきっと、感じてくれるのではないでしょうか…。
私たちは、そのお手伝いを少しだけさせていただく役割ですね。子どもたちの未来が豊かになるかどうかは、子ども達が不思議?と感じることを一緒に感じたよと私たちが共感していくことだと最近、特に感じます。
さく子先生、気づきをありがとうございました。
季節の変化を自然の中で体験する、って、当たり前のようですが、夏は冷房、冬は暖房の中にずっといたら感じられないものですね。これは季節のことだけではなく、あらゆる体験において言えることなのかなと思いました。安心安全の柵の中にだけいたら、外にある恐怖や喜びを体験できないな、などと考えてしまいました。