第52回
自由な子どもと雨雪と
井上 さく子
「やっとお休みに入る!」
「やっとお休みになったあ!」
「これで、家族みんなでゆっくり過ごせるね!」
年末から年始にかけて、お正月休みはどんなふうに過ごしたのでしょう?
まだ続くコロナ禍で、今までと違う家族みんなで過ごした時間や風景。
どんな物語の暮らしだったのでしょうか?
都会のお正月休みに、雪景色は年々ほど遠い世界かも知れません。
冬の季節と言ったら、寒い、雪が降ってきたらもっと寒くなります。
思わず
私の子ども時代を振り返って見たくなりました。
今では地方でも暖冬で雪はずっとずっと後に
舞い降りてきます。
私の子ども時代のタイムトンネルにスリップして見ましょう!
冬空の雲がどんよりと灰色に重くのしかかると「こう言う日は雪が降るんだよ!」と
遠い昔、孫の私におばあちゃんが教えてくれました。
「どうしてわかるの?」
子ども心に何回も聞いたものです。
今の時代とは違って、当時は天気予報が詳細ではなかったのです。と言うよりも、大人の感覚で、その土地の大人の直感で空模様と相談する習慣がありました。
そう言えば、母は毎日日記を書いていましたので、そのページに天気も記録していたことを思い出しています。
生涯を閉じるまで、ずっとずうっと書き続け、去年の冬はこうだった。2年前はどうだったかな?と記録の天気を参考にしていたことを思い出しました。
雨なのか?
雪なのか?
自然と共に暮らしてきた知恵がはたらき、それで判断をしてきたんだと思っています。
よほどのことがない限り、おばあちゃんや両親がつぶやく天気予報は概ね当たっていました。
その度に子ども心が動き、気象予報士みたいだと驚いたり、尊敬したりしていたものです。
今の時代からは、想像もできないかも知れませんが、昔は天気を自分たちで察して判断をし、一日の仕事に取りかかっていました。
「雨が降るから傘を持っていくのよ!」
「雪が降るから傘を持っていって!」と言われても
雪が降る?という喜びの心持ちでいっぱいになって「ハーイ!」と返事だけ。
すっかり忘れて傘を持たずに出かけていました。
はしゃぎながら、近所の遊び仲間と広場に出かけているとおばあちゃんたちの予報通り、ハラハラと天使の羽のように真っ白な雪が舞い降りてきたのです。
やっぱり、嘘じゃなかった。
本当に雪が降ってきたのです。
ハイテンションになっていた頃の記憶が鮮明に甦ってきました。
途中で遊びを中断させながら、誰もが「雪だあ!」と大きな声をあげながら、不思議と両手を広げて雪をつかもうとします。
新雪は、両手の中ですぐに溶けて形が消えてなくなります。それでも、どれだけ雪をつかめるか競争しながら、はしゃいでいました。
今更ながら
その年の初雪をこんなふうに受け止めて、はしゃいだ子ども時代を懐かしく振り返っています。
時が経つのも忘れて、見上げて雪をつかんでいたら、足元に少しずつ綿毛のように薄っすらと白い雪が積もっていることに気付かされ、今度はしゃがんでその雪を両手でかき集める。
集めた雪を丸めて、丸めて、全部でいくつ?
誰が一番多い?
ひたすら丸める続けていると仲間の周りに、たくさんの白団子が⁉
それを枯葉や板や陶器に入れたり、並べたりしていきます。
誰がこうしよう!と
決めなくてもいつの間にかみんな同じことを黙々とし続けていました。
丸がいくつ?ということよりも形からイメージを膨らませて、お店屋さんごっこや
食べ物屋さんごっこになっていきました。
私の子ども時代は、遊び道具は買ってもらうというよりも、身近にある自然事象や廃棄になった食器や道具を遊びの道具として使っていました。
ですから、子どもたちの手に運ばれた道具は、それぞれの子どもたちのイメージによってさまざまな形や中味に変化していくことで、遊びの世界も瞬く間に広がっていきました。
雪を通しての遊びは多様にあります。
ごっこの世界は、雪の降り始めから、積もり方、量、硬さ、重さ、高さ、広さも含めていくらでも変化し、進化していきます。
実は、自然発生的に科学の目や数や形など、今で言う教育の世界にも遭遇しながら遊んでいたことに、今だからこそ気づかされることがたくさんあります。
その時々の子どもたちの心持ちによって、遊びのアートが醸し出されていきます。
子ども心に、私は自然のアートが大好きでした。今の私の原点はここにあると言っても過言ではありません。
ところが、近年ではどうでしょう? 前回のコラムでもお伝えしましたが、
雨や雪が降っていたら、室内から眺めるだけで
外遊びなんてもってのほかと子どもたちの願いが疎外されているところに遭遇しています。
自然に触れて、遊んでほしいと言葉では言っていても、実際には風邪をひかせたら大変と言う理由から中止になってしまう傾向にあります。
見事に大人優先型の保育や子育てになっていませんか?
とても残念で悲しい世界としか言いようがありません。
「せんせい、ほら!見てごらん?」
「ゆきだよ!おそとにでてあそびたい!」と。
子どもたちのつぶやきをどんなふうに、感じて受け止めているのでしょう?
この瞬間を見逃さずに受け止めて、行動に誘ってほしいと心から願います。
もちろん、雨でも共通して言えます。
コロナ禍だからこそ、室内環境にこもり続けることよりも、外に出て少しでも解放感を抱けたら、それだけでも子どもたちの心持ちが爽やかになりますし、癒されます。
そしてもちろん、室内より外のほうが「三密」でなくなりますよね?
子どもたちは、いつもシンプルなことを願いながら自分の世界をデザインしようとしています。
私も含めて、周りの大人たちも自分の子ども時代を振り返りながら、目の前の子どもたちがどんなシグナルを発信しているのか見抜く力を蓄えていきませんか?
全ての大人たちにも子ども時代があったことを
真摯に振り返り、自分が子どものころしたかったことを思い出してみませんか。
コメント(5)
さく子先生の文を読ませていただきながら、私も子どもの頃の雪遊びした時にタイムスリップしていました。私が子どもだった頃も、特別な道具ではなく、庭にある植物の葉や実、石などを雪と合わせて食べ物に見立て、動物などを表現し、雪合戦などの遊びに使っていました。そして、繰り返し友だちと遊びながら、雪の性質を知っていったように思います。まさに「遊びは学び」という要素がたくさん含まれていると思います。
子ども時代を懐かしく思い出しました。新雪を照らす朝日ににキラキラ輝く美しさは不思議でなりませんでした。手に取るとただの雪なのですが、冷たい空気にサラサラとあたり一面美しい輝き。足跡と遊んだり、大きな渦巻の道を作り「かいせんドン」遊びを楽しみました。今考えると、遊びのルールは、年長の子が決めてそのルールで遊んでいました。皆、雪や汗で体から湯気を出して夢中で遊んで家に帰りました。ものが無くても、豊かな発想で次々あそびを広げ、日が暮れるまで遊べたものでした。今風に言いうと0を1に変える力、生きる力の基礎が遊びの中に確かにあったと気づかされます。
そうですね。大人優先の社会であり、大人都合の時間の使い方ですね。子どもは、頭でなく身体で生かされていることを教えてくれます。雪が降って、雪で遊ぶ。そんな、自然な姿の原点を、子どもから学ぶ必要があると感じました。
私の住む町は暖かく、小学生の頃は霜柱を踏んだり氷を割りながら登校したのを思い出しました。
昨日、孫がお散歩したいというので近くの公園まで行きました。北風がビュービュー吹く中、前傾姿勢で歩き、その事をママに「風がいっぱいで飛んじゃうの。びっくりした」と話していました。自然の豊かさを身体中で感じることで子どもの心も豊かになっていくのだと感じました。
東京はなかなか雪が降らず、降っただけでワクワクしますし、積もった時にはつい子どもと一緒にはしゃいでしまいます。
都会にいるとなかなか雪遊びができないのですが、昔、保護者とスキーに行った子が白い紙をちぎって雪のように降らせたり、牛乳パックをスキー板にしてスキーごっこをしていて、それがスキーをしたことのない子にも広がって……遊びを広げていく子どもの姿に感動したことを思い出しました。経験したことのひとつひとつが子どもの育ちにつながっていくので、それを支えられるようにしたいと思います。