第48回
保育と子ども まんまるまんまる心もまんまるに!
井上 さく子
ひと夏が過ぎて、最も過ごしやすい季節
それは、秋。
子どもたちにとっては、どの季節も関係なく大好きです。
大人たちは、
春はね
夏ってね
秋はね
冬ってね?
と、なんでも説明したり、話したくなるものです。
もしかしてそれが保育や教育だからと思っていませんか?
どころがどうでしょう。
子どもたちは、自然や季節を身体で感じることができるのです。
まさしく、五感を研ぎ澄まして生活力や遊び力を身につけていくのです。
自然の中に身を置いて、遊びほうけていくうちに、様々な自然事象に触れることができ、その体験を通して、季節の違いを感じていきます。
「ああして こうして」
「だから こうしよう!」
「だから ああしよう!」
私たちは幼子たちに向かって、こんなふうに言っていませんか?
「ああもしたいなあ! こうもしたいなあ!
だから、こうしよっと!
だから 、ああしようっと!」
と、それぞれに想いを巡らしたり、考えたり、工夫したりするのが子どもたちの仕事、つまり遊びなんですね。
それは誰かが決めることではなく、子どもたちが自ら決めることです。
最も大切なことは、生活の全てや遊びの世界で大人が相談者になって、受け止めたり、促したり、寄り添うことはあっても、選ぶことも、決めることも、子どもたちが選択できるように、環境をデザインしていくことです。
困っていること
怒っていること
感じていること
工夫していること
考えていること
面白がっていること
楽しんでいること
喜んでいること
嬉しがってること
喜怒哀楽の感情は、教えてもらって育むことでしょうか?
子どもたちが全て五感を研ぎ澄ましながら、体験を通して生きる力を紡いでいると思いませんか?
大人たちが
その心持ちを通して見抜く力や観察する力を蓄えていくことが、課題だと思っています。
それができるようになると、子どもたちの見方、受け止め方が大幅に変わってきます。
それだけではありません。
逆に大人たちが子どもたちの世界にどんどん引き込まれていきます。
泥だんご作りに夢中になっていた、
年長の男の子のエピソードをお伝えします。
最初は黒土で丸めていきます。
自分でイメージしてある大きさや形になるまで、必死に丸め続けていました。
最初から綺麗な丸にはならず、
「あれ?おかしいなあ???なんでだあ!
丸くしているのに、丸くならない?」
と、つぶやきながら、力加減を知っていくのです。その加減が両手の仕草にも表れていて、力だけではなく、(まあるくな〜れ、まあるくな〜れ)と気を送っているかのように、手つきもやさしくなっていく様子が、見てとれます。
黒土を持つ手にやさしさが添えられると、魔法仕立ての如く、少しずつ思い通りの形になっていきました。
子どもたちは、この感触、この感覚、この間合いを、感覚機能を発揮しながら、学んでいくのです。
ずうっとじっと遊び始めて気がついたら、なんと食事時間になっていました。
「えっ?! うそー!」
「もうそんな時間?」
そうなんです。
そんな時間なんですよ!
どうします?
本当はずうっとやっていたいけど、おしまいにすると泥だんごを白い布で包み、泥だんごが一個ずつ入る棚の中に入れて、食事に駆けていきました。
時間があってない子どもたちの世界。
集中とか没頭とかの言葉で表現するにはもったいないくらいのエピソードです。
ひとつのことに一生懸命に取り組んでいる、このプロセスこそが大事。
どれだけの力を蓄え続けているんだろう?
考えていることと実際の形の違いに、もがき葛藤しながら、ただひたすらに同じ方法を繰り返し行う。
大人がまねしようと思っても邪心がはたらき、ここまでまっすぐな心持ちを抱くことができないと思いました。
改めて、子どもの力の凄さを見せられた思いにもなりました。
誰にも邪魔されなかったり、誰にも拘束されなかったら、子どもたちの世界は限りなく、深く広がり続けていくと思いませんか?
黒だんごが固まりかけると、白砂を両手でかけてはさらに磨いていきます。何回も何回も繰り返していくと光沢が出てきます。
サラシの布で丁寧に磨いていきます。
この段階になると数人の仲間たちと車座になって地べたに座り込み、黙々とサラサラの白砂をかけては磨くことを限りなく、納得するまで磨き続けていきました。
その傍で、それを憧れのまなざしで見つめている3歳児たちが。
『今はできないけど、やがてぼくも私も同じようにして見たいなあ!』
そんなつぶやきが耳に届きそう。
作品の完成度よりも何よりも、私たち大人は、例えばこんなエピソードに寄り添いながら、子どもたちから何を読み取り、何を学ぶのでしょう?
「また、今日もだんご作り? そろそろ、違うことやってみない?」
と、大人都合の言葉をかけていないと信じています。
ところがだんご作りの世界と同じような風景に遭遇すると、大人たちは待つことができずに畳み込もうとする風景がまだまだ、たくさん見受けられます。
全身を使って泥だんご作りに没頭できたところで、この時期にぴったりな大人の仕掛けが用意されていました。
「月見団子を作ってみない?」
黒土とは違う白玉粉の感触に触れながら、
指が
手の平が、
手首が、
腕が、
身体全体が記憶を呼び戻し
まあるい形にしてくれるのです。
子どもたちがこねこね丸めた月見だんごの完成です。
夜に全員で月見だんごを添えて十五夜のお月見、ということははできないものの、遊びや生活を通して日本の文化に触れる体験は、子どもたちの心持ちをすくすく豊かにしてくれると思いませんか?
どんな体験にも、共感や「共苦」は一緒について回ります。
私たち大人にとっても等しくついてきます。
子どもたちは、まんまるお月さんを見て、何を願うのでしょう?
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コメント(5)
タイトルの"まんまる"という文字にほっこり、ゆったりを感じながら読ませてもらいました。
大人の心持ちがまんまるで、大人達のまんまるな輪の中で五感を働かせて子どもたちと関わっていきたいと思いました。先を進み過ぎる保育をしていないか自分を振り返りました。
数日前の夜、孫と空を見上げたら満月が見え感動しました。こんなささやかな幸せを、忙しさで忘れていたなぁと思いました。
「もう9月だから秋だよ!」「まだ暑いから夏だよ!」昔、そんな言い合いをしていた子どもたちがいたなあ……と思い出しました。
そのあと、散歩に行ったらセミが鳴いていて、9月だから秋だと言っていた子は「セミが鳴いてるからやっぱり夏だ」という結論に達したようで。子どもっておもしろいなあと思ったものです。
今回、さく子先生のコラムを読んでそのことを思い出しました。
理屈でなく、感じることが大切。
子どもはいろいろな体験や経験を通して、感じ、考え、学び、育っていくのですね。
感じたことに共感してくれる相手がいれば、よりいっそう、それは豊かなものになるのではないかと思い、でもそれって大人も子どもも一緒かもしれませんね。
楽しいことやっている時の集中力。凄い。子どもの力は無限大‼️と思う。時間を忘れてずっとやっていていいという、環境だったら素敵ですよね。難しいのは何が邪魔しているのでしょうね。
大人も色んなこと忘れて没頭したい。と思いました。
保育は本当はとてもシンプルで良い。子どもに寄り添い共感していくと何をしたいか見えてくる。そこに仕掛けを楽しみ遊びを気づかれないように広げていく。保育を難しくするも楽しくするも保育者の心持一つ。さく子先生の教えです。春だから何をして、夏だから秋だから等と保育者が先回りする保育が良いと真剣に研究しようとしたこともありますが難しくて挫折。空の色や雲の様子、風から感じたり、草花、町の風景等など、子どもたちの豊かな感性から教わることを私も楽しみたい。日々どのしぐさももったいなくて見逃したくないと思います。
こころもまんまるに。
さくこ先生のエピソードから、大人である私たちがどう感じ取れるか。いつも、思います。
大人都合に導く声がけ、行動を、一人ひとりに寄り添ってと勘違いしている場面に何度も何度も。もしかして、じぶんも‥子どもの力を信じて、大人である自分の行動を振り返って、子どもと一緒に成長していきたい、こころをまんまるにして。