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井上さく子先生の 子どもに学ぶ 21世紀型保育
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第75回
いたずらが遊び、遊びがいたずら
「遊びの見える化」とは?
井上 さく子

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ここは、子どもたちが毎日通う保育園や子ども園。
子どもたちの居場所、子どもたちの暮らしの場。

安心、安全の場所でしょうか?
安心の居場所でしょうか?
安全の暮らしでしょうか?
子どもたちが毎日「早く保育園や子ども園に行きたい!」 と、言える居場所でしょうか?

こんな視点で保育現場に関わりながら、子どもたちのありのままの育ちから学び続けて、今です。


大田区の某保育園

園をあげて21世紀型の保育をめざして、学び続けている朝一番の保育環境です。
どの部屋もビフォーアフターの環境になっていて、道具や玩具がきれいに棚の中に散りばめられていました。
部屋に入った瞬間、「みんなどこへおでかけかしら?」と錯覚を起こす程、見渡す風景は、どこで何を使って遊んでほしいのか? 大人の願いが見える化された環境のデザインになっていました。

気づきを学びに、学びを実践に
実践が子どもの育ちへ――

子どもの育ちをエピソードで共有し、継続して取り組んでいる結果が、このような素敵な環境のデザインに。
思わず「なんて素敵な環境なんでしょう?」と、つぶやいてしまいました。

整理、整頓された環境で、自ら選んで遊ぶことが困難な年齢であればあるほど、道具や玩具を「見える化」した遊びの提供をしていくことが必須だと思っています。
子どもたちの視界に映る風景が魅力的だと、自らその場所に向かったり、玩具や道具を手にしようしたりします。
そんな子どもの願いを受けて、遊びの仕掛けをしてみました。

するとどうでしょう?
午前のおやつ後に、そのことに気づいた0歳児クラスの子どもたちが、その変化に気づきつぶらな瞳が点に!?

「あれ?」
「あら?」
「どうして?」
「どうなってるの?」

ことばにこそ表しませんが、全身でそのオーラを醸し出してくれました。そのことに気づいてくれた周りの大人たちの感性にも驚きました。
ここでエピソードを紹介します。

手づくりの大型積み木ふう四角い形の積み木を、立体的に並べてみました。両サイドに立てて並べると通路のように映ります。
おやつを終えての遊びで、こちらの願いが通じたかのようにそこを行ったり来たりしています。
バランスがうまく取れずに、積み木にぶつかるとパタン! と倒れてしまいます。その度に、声を上げて「直してほしい!?」のサインを出す子どもたちです。そばに寄り添っている大人が、その度に子どもの願いを受け止めていました。
少し場所を移動したところでも、繰り返し同じ遊びが続いていたときのことです。大人に直してもらいながら、今度は自分で立て直そうとします。その幅がスムーズに通れるところとその半分の幅に気づいたおぼっちゃまは、瞬間的に??? どうしたと思いますか?

なんと考えた結果、横歩きをして通り抜けができたのです。

周りの大人たちは、その賢い振る舞いに驚かされました。
大人がいとも簡単に助けがちですが、この0歳の時代でも自分で考えて行動に移すことができることを教えてくれたのです。この空気感こそ、子どもに学ぶ視点、子どもが答えてくれる視点だと思いませんか?
大人の心持ちと子どもの心持ちは必ずしも一致するとは限りません。
なぜでしょう?

例えば、他の保育園のエピソードです。
1つの活動が終わった子どもから、整然と片付けられている部屋に移動すると、年齢にもよりますが「どうぞ走ってください!」と、言わんばかりのスペースに映っていると思いませんか?

遊び道具や玩具が見える化されていなかったら、走りたくなってあたりまえだと思いませんか?

その通り!

子どもは
「何をしようかな?」
「どこに向かおうかな?」
「誰とあそぼうかな?」

こんなふうに思いながら、走っている訳ではありません。
「どうぞ走ってください!」
本能で、この瞬間は「ぼく、わたしのもの!?」全身でこの瞬間を受け止めようと走っている子どもたちは満面の笑みを見せてくれました。
自分の身体を試しているかのようにも受け止められるのは私だけでしょうか?

ところが、どうでしょう?

「ひと足お先に!」と移動してきた子どもたちの後に、大人が入ってくると、最初はひとりだけの走りから、2人、3人となったら強気になり止まらなくなってしまう心持ちは如何に? 大人はその場を目にしたら、止めるための手立てを打ち出してしまいます。
当然の如く、大人からのことばが飛んでいきます。

「ここは走るところですか?」
「うううん!?」
「走ったらあぶないよね?」
「うん!」
「ケガをしてもいいの?」
「ヤダァ!」
「だったら走らないで遊ぼう!」
「やだあ!!」
「じゃあ、そう言うお友だちは遊ばなくて結構です。」

例えば、年齢を問わず、このような場面に遭遇することがたくさんありますが、皆さんはこの状況をどのように受け止めるのでしょうか?

走らせてしまう原因は、どこにあるのでしょう?
走らせてしまう環境を、誰がつくっているのでしょう?

心持ちをたたみ込まれ、終いには「遊ばなくて結構です!」と疎外された子どもは「ヤダァ!」と、言いながら泣いてしまうこともあります。
その丸ごとを離れたところから目にしてしまうと大人でも心苦しくなってしまいます。

「気づいてほしい!」と思う前に、それがあたりまえの関わり方と思っていませんか? 感度がマヒしていませんか?


1つの着眼点として、拾わせていただいていますが、日常の暮らしの中でこの場面と似たようなことが起こりうるのでは? または、起こっていませんか? 自ずとそんな問いがうまれてきました。

いかがでしょう?

長時間保育の環境で暮らしていたら、なおのこと。
子どもたちはいつもいつも大人の視界の中に置かれていることを、
必ずしも安心、安全、心地よいとは思っていないと振り返ったことがありますでしょうか?

走りたくなってしまうこと
走ってしまうこと
走ってしまったこと

について、止められたり、たたみ込まれたりしてしまったときの子どもの心持ちを読み取る力を蓄えられたら、最初に大人の心持ちを伝えるのではなく、

「走りたかったの?」

と、その動きを肯定的に受け止めた上で、次に大人の心持ちを添えて対話してほしいと子どもの心持ちを代弁したくなりますが、いかがでしょう?

心持ちにゆとりがないとなかなか、こうした対応ができないことも現実としてあるかな? 正直にそう思うことも...。

特に、遊びや生活場面の切り替えのときに、一斉に集めようとしたり、動かそうとしたときに、真逆の世界に飛び出したくなったり、走って逃げて行ったりすることがありませんか? このような状況が大人にとっては困りごとであっても、子どもにとっては正常なサインだと思えるかどうかで、その先が大きく変わると思うのは私だけでしょうか?

飛び出してしまう子どもを目の当たりにしたときに、客観的に受け止めてしまう自分がそこに居ます。
実は「そうしたくなる心持ち分かりますよ!」と、心の中でエールを送っていることも!?

みんなみな大人の思い通りに活動をコントロールされたら、どんな子どもでも飛び出したくなってあたりまえだと思いませんか?

一人ひとりの子どもたちの育ちの違いをどのように受け止めるのでしょうか? 育ちの違いを肯定的に受け止めることができたら、子どもたちの願いを見極める目が確かになっていくことによって、見方や受け止め方が変わっていきます。子どもたちのいたずらまでも「面白い!」と思えるようになっていきます。

試して、楽しんでいきませんか?

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