角刈りコワモテ事件記者が、63歳で保育士の道へ!根底にあった子どもたちへの思いとは

犯罪を専門に取材する事件記者一筋、40年。地下鉄サリン事件なども取材した新聞記者が退職後、次なる人生のフィールドに選んだのは「保育業界」だった──。
元朝日新聞記者・緒方健二さんが上梓した書籍『事件記者、保育士になる』には、63歳で短大通いを始めたいきさつや、多難ながらも微笑ましいキャンパスライフが綴られています。保育業界でも注目を集めている一冊なので、みなさんのなかにも読んだ方がいるかもしれませんね。
ほいくらしでは「犯罪の海に溺れるような生活」から、子どもたちを守る仕事へと転身した緒方さんにインタビューを依頼。子どもたちへの思いや40年以上ぶりの学生生活での心温まるエピソード、日本の保育政策への提言など、たっぷりとお話をうかがってきました。
\お話をうかがった方/
緒方健二さん
1958年大分県生まれ。同志社大学文学部卒業、1982年毎日新聞社入社。1988年朝日新聞社入社。西部本社社会部で福岡県警捜査2課(贈収賄、詐欺)・捜査4課(暴力団)担当、東京本社社会部で警視庁警備・公安(過激派、右翼、テロ)担当、捜査1課(殺人、誘拐、ハイジャックなど)担当。捜査1課担当時代に一連のオウム真理教事件を取材。国税担当の後、警視庁サブキャップ、キャップ5年、事件担当デスク、警察・事件担当編集委員10年、前橋総局長、組織暴力専門記者。2021年朝日新聞社を退社し、2022年4月短期大学保育学科入学し、2024年3月に卒業。保育士資格、幼稚園教諭免許、こども音楽療育士資格を取得。現在はフリージャーナリストとして活動するかたわら、朝日カルチャーセンターで事件講座を持つ。
「本気で子どもを守りたいのなら何をすべきか」を考え、63歳で短大を受験
──新聞社を退職して短大の保育学科へ入学した当時、緒方さんは63歳でした。かなり意外性のあるセカンドキャリアへの挑戦ですが、なぜ保育について学ぼうと思われたのでしょう?
緒方:私のキャリアは新聞記者としても異例でして、40年近い記者生活のほとんどを事件・犯罪を取材する社会部で過ごしました。1995年に起こった地下鉄サリン事件をはじめ、これまでに取材してきた事件・犯罪の数は8,000件以上。そのなかには、子どもが誘拐されて殺される、あるいは虐待によって命を落とすといった痛ましい事件も多く含まれています。
子どもは本来、無条件に愛され、慈しまれてすくすくと育つべき存在です。にもかかわらず、犯罪をする側の勝手な理屈や不純な動機によって、暴力をふるわれたり、命を絶たれたりしてしまう。もちろん、そうした事件が起こるたびに、記者として警察や関係者を取材し、事実を報じたうえで、再発防止のための啓発に努めてきたつもりです。しかし、いくら記事を書いても、次から次へと子どもが犠牲になる事件が起こってしまう。
そうやって、同じことが何度も繰り返されるのを目の当たりにするうちに、やるせなさや新聞記者の限界を感じるようになった、というのがもともとのきっかけでした。
──新聞記者には「取材相手との健全な距離を保たなければならない」という規範のようなものがあります。被害に遭う子どもに直接支援の手を差し伸べたくても、それは許されない。さぞかし、もどかしい思いをしたのではないかと想像します。
緒方:おっしゃるとおりです。できるならば、自分が事件当事者に介入して守ってあげたい。そんな思いがいつもありましたね。
ただ、「子どもを守りたい」と言うわりに、当時の自分は子どもについての専門知識を持っていませんでした。子どもの健全な成長や発達にはどんな環境が最適なのか、子どもを守るための法制度や施設にはどんなものがあるのかなども、ほとんどわからない。私が知っていることと言えば、すべて取材する過程で聞きかじった程度の情報ばかりでした。
そんな人間に「子どもを守る」などと言う資格はありませんよね。本気で子どもを守りたいのなら、子どもをめぐる専門的な知識を身につけ、保育・教育の現場を知る必要がある。ならば、専門の教育機関で学ぼうと、保育学科のある短大を受験することにしたのです。
──短大受験を決めたときの周囲の反応はいかがでした?
緒方:家人に伝えたところ、難色を示されました。お恥ずかしい話ですが、新聞記者時代の私は「忙しい」「世のため人のためやっている仕事だ」などと言い訳をして、家庭を顧みることがほとんどありませんでした。そのせいで、家人にはこう言われたんです。「あなたは、自分の子どもにすらろくにかかわってこなかった。そんな人間がひとさまの大切なお子様を守る? いったいどの口が言うのか」と。ぐうの音も出ない正論でした。
──それでも、緒方さんの決意は固かったのですね。
緒方:退職時、自宅に持ち帰った記者時代の大量のノートやメモを整理していたところ、子どもが犠牲になった事件に関する記述もたくさんありまして。それに目を通していると、ノートの中にいる子どもたちに「新聞記者を長く務めたからどうした、何も成し遂げていないじゃないか」と言われているような気がしたんです。
家人が難色を示すのはもっともだけれど、いま動き始めないと、自分が思い描くことの実現が遠のいてしまう。ノートやメモを見ながらそう思い、決意を新たにいたしました。
40歳以上年下の同級生、ピアノの実技……。不安しかなかったキャンパスライフ
──その後、北九州市にある私立東筑紫短期大学の特待生試験を受けて、見事合格。2022年、保育学科に入学します。久しぶりに学校で学ぶにあたり、不安や懸念はありましたか?
緒方:いちばん懸念していたのは、周囲の学生さんたちとの関係性です。当然ながら、私以外の学生の多くは18歳か19歳。しかも、私が通うことになった短大の保育学科は、全体の9割近くが女子学生なのです。
彼女たちからすれば、私など到底同級生には見えませんよね。のちに語ってくれたところによると、入学当初はみなさん私のことを大学の教員、あるいは学生の保護者と思っていたそうです。そもそも、まともな社会人とは思えない風体と物腰ですから。
──菅原文太さん風の短髪に、鋭い眼光。失礼ながら、緒方さんのたたずまいを映画にたとえると、学園ものではなく『仁義なき戦い』といった感じです(笑)。
緒方:でしょう? 「弾はまだ残っとるがよ」なんてことは絶対に申しませんが、いかつい風体の男が学生生活に入り込んだら、みなさん警戒するだろうし、どう接すればいいのか困惑するに違いありません。そこで、学生さんたちのキラキラしたキャンパスライフをじゃましないために、自分の言動を律する「野獣諸法度」という5つのルールを定め、実行に努めました。
野獣諸法度 |
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一、目立たぬよう気配を消せ 一、女子学生には「さん」付け、丁寧語で 一、男子学生は呼び捨て、敬語は不使用 一、全局面で学生の範たれ 一、全科目で最優秀評価獲得&無遅刻無欠席 |
入学して日がたつにつれて、私の前職がみなさんの知るところになると私への警戒感が薄らいだようです。教員の一部は私が事件記者だったことを知っていましたから、児童虐待がテーマの授業では私を指名して、「緒方さんが児童虐待事件の取材で印象に残っているエピソードがあればお話しください」「再発防止のためにどうすればいいとお考えですか?」と、発言の機会を与えてくださったのです。
「野獣諸法度」の遂行とそうした機会の積み重ねによって、みなさん少しずつ「あの男は反社会的勢力でもなければ、人に害を与えるような野獣でもなさそうだ」という認識を深めてくださったようです。
──著書を拝読していても、緒方さんが学級新聞の編集長になったり、男子学生から恋愛相談を受けたりと、学生さんたちとのエピソードは心温まるものばかりでした。クラスメイトとの間に関係性を築いてからは、順風満帆な学生生活だったのでしょうか。
緒方:いや、まったく順調ではありません。最大の難敵はピアノの授業でした。「ほいくらし」の読者の方はご存じだと思いますが、短大の保育学科を卒業する、つまり保育士資格と幼稚園教諭免許を取るにはピアノ関連の単位取得が必須です。
私はこう見えても、子どもの頃は親にさまざまな習い事をやらされ、剣道や柔道、野球、書道、それから絵画教室にも通っていたのです。ところが、ピアノだけは親の選択肢になかったようで、63歳にしてほぼ未経験の状態でした。
ピアノは、入学前から不安に思っていることのひとつではありましたが、私には何事も楽観的に考える悪癖がありまして、「なんとかなるやろ」と思っていました。とんでもない、ちっともなんとかならなかった。個人レッスンが10分ほどしか受けられない授業で、「じゃあ弾いてみてください」と言われても、右手と左手を別々に動かして、しかも歌いながら弾くなどという高難度なことができるわけありません。
──入学当初の目標として掲げた、「全科目で最優秀評価獲得」に黄色信号が灯りますね。
緒方:はい。1年前期のピアノのテストは「不可」、再試を受けてギリギリの「可」でなんとか合格するという体たらく。このままではいけないと、恥を忍んで同級生に教えを請うたり、自宅で家人の指導を受けたりしながら、新たに購入した電子ピアノで日々練習に励みました。
おかげさまで、その後の試験は「可」より上の「良」で合格。2年後期の最後の試験ではブルグミュラーの「アラベスク」に挑み、80点以上の「優」で合格することができました。結果的に卒業できたのは、支えてくださったみなさんのおかげです。
初めて経験する保育の現場で、子どもたちに教えられたこと
──短大在学中には、保育施設での「実習」も経験されています。初めて保育や幼児教育の現場に立ってみて、いかがでしたか?
緒方:保育所と幼稚園、児童福祉施設で、それぞれ10日〜20日間を過ごしました。当然ですが、子どもたちは年齢や月齢も違えば、個性や特性も一人ひとりまったく異なります。でも、どの施設でも、子どもの多様性を重視しようという考えが大前提としてある。そして先生方は、秒単位で態度を変える子どもたちを相手に、にこにこ笑いながら遊びつつ、子どもたちが危険なことをしないかに気を配り、保護者の方々の対応までしていらっしゃる。
わかっていたつもりですが、思っていた以上に保育や幼児教育にかかわるみなさんはすごい人たちだなと敬服いたしました。
──緒方さんは実習生としても異質な存在だったのではないかと思います。子どもたちはすんなりと受け入れてくれましたか。
緒方:最初は、私を見てポカーンとしていましたね。実習生がくることは、子どもたちも事前に知らされていたようで、きっと「若い女性の先生がくるんだ」と思っていたことでしょう。私については「男性である」「若くはない」くらいの説明は受けていたと思いますが、実際には想像を超える異物がやってきたのだから無理もありません。
ただ不思議なことに、私を怖がる子はいませんでした。子どもたちはすんなり受け入れてくれたんです。ある実習先で子どもたちにあいさつをしたときなどは、女の子がすっと近寄ってきて、いきなり私の刈り込まれた頭髪をぽんぽんとなでてくれました。「同年齢のお友だち」と思ってくれたのかもしれません。そんなウェルカムな雰囲気だったので、安心して楽しく実習に臨めました。
──実習を経験するなかで、とりわけ印象的だったエピソードを教えてください。
緒方:すべてが忘れられない経験ですが、真っ先に思い出すのは子どもたちとのふれあいです。たとえば、ある日の夕方、部屋の窓ガラス越しに三日月が見えたのです。子どもがひとり三日月をじーっと眺めていたので「お月さんに興味があるのですか?」と聞くと、「うん」と答える。そこで、私が持っている月に関する知識をお伝えすると、その子の目が輝いて「もっと話して」と求めてくる。
リクエストに応えて、月までの距離やそこに人間が降り立ったことなど、さらに月について話していると、その子がふいに「先生、お月さまって両手ですくえるのかな?」と聞いてきたのです。子どもの発想の豊かさに感動して、自分がサン=テグジュペリの世界に迷い込んだような気分になりました。同時に豊かな言葉がけの大切さを実感しました。
別の施設でも、こんな出来事がありました。ある男の子がいて、一緒にボール蹴りをしたり、飛んだり跳ねたりして遊んでいるうちに仲良くなりまして、お互いに楽しい時間を過ごしていました。けれども、私は長く施設にとどまることはできません。そして、もうすぐ実習が終わってしまうある日、その子が私のほうに寄ってきて、「先生がここにいるのは、僕たちを幸せにするためだよね?」と問いかけてきました。
私は驚き、我に返りました。保育学科で学ぶのは、保育士資格や幼稚園教諭免許を取るためではなく、子どもたちを守り、幸せにするためです。その言葉のおかげで、保育の本質や短大入学前の初心を思い出すことができました。自分の胸に刻むだけでなく、同級生や教員にも共有しました。今後も折に触れて反すうしたい言葉です。
国の保育政策に対しては、「ええ加減にせえよ」と声をあげたくなる
──2024年3月に無事に短大を卒業し、保育士証と幼稚園教諭二種免許、こども音楽療育士認定証を取得されています。現在は、保育にかかわるお仕事に就かれているのでしょうか?
緒方:いまのところ保育や幼児教育の現場では働いておりません。短大で身につけた知見もふまえて、さまざまなメディアに寄稿したり、朝日カルチャーセンターの講座で話したりして、情報発信に努めています。施設の運営も視野に入れながら「子どもの最善の利益」実現のために何ができるかを模索しています。
──保育に関して物申したいしたいことが、以前にも増してたくさんあるのでしょうね。国や自治体、保育施設への提言があればお聞かせください。
緒方:保育士1人が関わるのに適した子どもの人数である国の「配置基準」をはじめ、言いたいことは山ほどあります。まずは、「幼保一元化」をめぐる現状です。日本の保育政策では長く、児童福祉施設の保育所は厚生労働省、学校の一種である幼稚園は文部科学省がそれぞれ管轄する「二元制」が続いています。つまり、就学前の子どもの保育について、保育所と幼稚園に分けているのです。それが近年は、育児サービスに対するニーズの多様化や待機児童問題に対応すべく、幼保一元化の実現を求める声が高まっています。
私も幼保一元化自体には賛成ですが、実際はほとんど進展していません。原因は、管轄する役所が手放そうとしないからです。あれこれ理由をつけていますが、よくわからない。
世論に押されて2006年に、保育所と幼稚園の機能を併せ持つ「認定こども園」ができました。2023年には「こども家庭庁」なる役所が発足し、保育所とこども園を管轄するようになりました。幼保一元化の実現はますます遠のいています。2022年には文科省の官房長ら6人の幹部が、全日本私立幼稚園連合会側から接待を受けたとして処分されました。官房長を除く5人は幼児教育課長の経験者です。手放したくない理由はこれか、と勘ぐられても仕方ありません。
しかし、そんな役所間の縄張り意識で迷惑を被るのは、現場で働く保育者であり、子どもたちであり、保護者のみなさんです。役所のみなさまには「保育所保育指針」や「幼稚園脅威橋梁」をころころ改訂して、現場を混乱させることに励むより、幼保一元化実現に向けて仕事をしていただきたい。
それから、保育士の待遇の改善も喫緊の課題です。お給料は全産業の平均より低い。激務に見合わない待遇で、崇高な仕事を続けさせてはなりません。待遇改善が叫ばれつつ実現しない背景には、子ども関連政策に投じるお金の少なさがあります。こども家庭庁の資料では、2019年の時点で、日本の子ども関連の支出がGDPに占める割合は1.74%に過ぎず、3.42%のスウェーデンや2.71%のフランスなどと比べて明らかに低い(※)。
※出典:「参考資料集」(こども家庭庁)(https://www.cfa.go.jp/assets/contents/node/basic_page/field_ref_resources/81755c56-2756-427b-a0a6-919a8ef07fb5/18e3aa55/20230402_policies_03.pdf)
──確かに、いま名前の挙がったスウェーデンやフランスは、子ども政策に大きな予算を投じた結果、出生率の回復を実現しています。
緒方:日本でも選挙前になると、与党も野党もこぞって「子ども政策は最重要」と主張するのに、肝心の現場の状況はいつまでも改善されない。言うこととやることの剥離が甚だしく、これについても「ええ加減にせえよ」と申し上げたい。国連で「子どもの権利条約」が採択されたのは1989年、それを国内で諸施策に反映される手続き「批准」を日本がしたのは5年後の1994年と遅かった。子ども政策に取り組む本気度を疑います。
──幼保一元化や待遇改善については、同じ思いの保育士も多いかもしれません。最後に、「ほいくらし」の読者へメッセージをお願いします。
緒方:短大時代の同級生の多くは、現在保育所や幼稚園、福祉施設で働いています。保育の理想とは違う現実に直面し、悩んでおられる方も少なくありません。おそらく「ほいくらし」の読者のみなさんの中にも、そうした方がおられるのではないでしょうか。
社会人になってすぐの時期は、誰でもそんなものです。私ごとき半端者も新聞社に入社した頃は失敗して恥をさらすだけの日々が続いたり、上司と衝突したりで、こんな会社辞めてやると何度思ったかわかりません。
しかし、あらゆる壁には対処方法があります。みなさんが抱える問題が深刻なものになってしまうまでにやれることはいくらでもあるので、まずは周囲の方たちに相談してみてください。それでも問題が解決せず、この仕事は続けられないと感じたら、一度保育の世界を離れてほかの仕事をしてみるのもひとつの手です。
何しろみなさんは若くて、いろいろな可能性を秘めているのですから、人生を保育だけに捧げる必要はありません。とにかく疲れてしまったという方は、しばらく何もせずに体と心を休めるのもいいでしょう。そうした期間を設けたうえで、やっぱり子どもたちのために何かしたいと思ったら、そのときに復職するなり、別の施設で新たなスタートを切ればいいのです。決して思い詰めないでください。何とかなります。
編集部経由で私に相談していただければ喜んで助太刀いたしますので、遠慮なく悩みをお寄せください。お役に立てる自信はまったくありませんが、誠意を持って耳を傾けます。それなりに修羅場をくぐってまいりました。ヒントのかけらくらいはお伝えできるかもしれません。みなさんの願いはきっと私と同じ。子どもたちを守り、幸せにするために何ができるかを一緒に考えてまいりましょう。
取材・文/岸良ゆか